Tachihara Michizo Memorial Museum
《京都展初公開資料その1》田中一三から立原道造宛の巻紙

巻紙

田中一三 立原道造宛封書(巻紙) 封筒消失
    [一九三六年(昭11)一二月]四日付[聖護院]

立原は、1936年秋の京都行きの折(10/24〜30)、一高時代の友人で京大仏文科在学中
の田中一三(雅号・香積)が下宿していた迎稱寺の離れに逗留した。
ここで紹介する封書は、立原が帰京してから一月ほど過ぎた日に認められたと推定される。
立原が去ったあとに訪ねてきた「猪野が帰つて空虚な部屋に端然と黙してゐます」という
書き出しのこの封書は、立原が迎稱寺で誌した小場宛封書(28日付)と同じ朱色罫線入の
巻紙に墨書されている。後段の「違ふ宇宙に飛翔して了ふ」のくだりには、1938年1月に
応召され40年12月にソ満国境で自決した田中の終焉を、予感させるものがある。

書き起こし(全文)

前略 猪野が帰つて空虚な部屋に端然と黙してゐます 何を言ひませう 黯くねづみ色の床の間の壁に白く浮き上つて百合の花が三輪 茫と煙つてゐます 瓶は壁と同じ灰色の青銅だから 白い花だけ夢のやうに 浮き上がり甘く慄えてゐます それは 君の想ひ出のやう、(断じて文学的誇張に非ず)僕はほんとに熱いものにむせんでゐる。猪野が言ふでせう 猪野は奈良を経て帰つてゐます、それは酒を呑んだり酔払つたり喫茶店をさまよひ廻つたり 君に見せ度くない程なバツクスの饗宴 しかし僕は胸の一隅の甘いふるさとの巣を出られないあはれな小鳥、囚と言つてもいヽでせうか その巣のやはらかい暖かさに曽て君は忍び込んだ その様な気が僕はする だから――だから悲しくも言ふのです 君に見せたくない程なデオニソス的仮面をと、何てつまらない京都だらう、さう思ひ乍ら猪野は帰つてゐます それに大きな心配な用事を思ひ乍ら――それが猪野を大阪へ呼んだ――
何も言へない、ほんとにみんないヽ人許りなんです 雑誌なんかつぶれたつて些々たる問題です
過ぎ去つた日の楽しかつたこと!楽しい故に何と酷く今の胸を釘で刺すことでせう、
(僕が今センチメンタルになつてゐる?馬鹿言ひ給へ)僕は今、夏の旅や信濃のことや、想ひ出が重つて倒れさうです、今新聞に追分の事が書いてあると、せめて外面的忙しさに クロロホルムの如く酔はうとする僕の胸のあの最も大切な一隅をむごくも掻き立てるのです。浅間のけむり高原の花それらに没入出来る心がまた堪へ難く甘く悲しい、狂乱しさうだ 一年位静かに部屋に置いてきぼりにして呉れれば石を投げ込んだ心の面は波紋も静まり漣もなく美しく 山々やふるさとやいろいろの美しい人を映すでせう 今はもう何も見えない何も聞えない 私は唯 森や山や谷の想ひ出の中に突進む そしてそれはふるさとの絵と重なつてゐる それを邪魔する者あれば、お願ひだ静かにおしを言ふ許り
 子供のやうに甘えたい
 むかしの国の縁側や
 日向ぼつこの猫たちや
 ほら落葉焼くあの匂ひ
 あの煙り
 甘えかヽつて草疲れて涙に濡れてそのまヽ眠り
夢は――夢は――何だか書けない程いヽ夢、
いつまで書いても切りがない こんな無駄は止めませう だが用事や何かは書くのが厭です また思ひついたら書きませう それではお休み
それから猪野が言つてゐた、君が少し悲観してゐると、それはよくない、だつてさうではありませんか [以下写真掲載] もしも思ふまヽにならぬ事ばかりあつても想ひ出のふるさとを持つてゐるものは きつと強く生きてゆける 僕なんか宇宙が一寸でも僕を厭な目に合はせやうとしたら、早速僕の美しい絵や写真や想ひ出をリユクサツクに入れ、(さうさうまだまだいろいろのものを入れる、大急ぎで入れる そして好きなもの甘いもの、をみんな詰め込んで 違ふ宇宙に飛翔して了ふ。だから案外楽観してゐる。いつだつて宇宙よ僕をいぢめてごらん、僕は さよならのハンケチで宇宙を軽蔑してやる。そして花や山や何やかや美しいものばかり夢を見る。何と出鱈目を書いた事だ、よんだら焼き捨てヽ下さい。
            四日夜半
            香積
立原道造兄
    榻下



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