Tachihara Michizo Memorial Museum
ヒアシンスハウス

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別所沼の畔に建つ「ヒアシンスハウス」のご紹介

 ・写真:ヒアシンスハウスの外観1[2004.11.6撮影]竣工式典の朝
 ・写真:ヒアシンスハウスの外観2[2005.3.13撮影]早春の午後
 ・写真:ヒアシンスハウスの外観3[2005.3.13撮影]早春の午後
 ・写真:ヒアシンスハウスの室内1[2004.11.6撮影]竣工式典の朝
 ・写真:ヒアシンスハウスの室内2[2004.11.6撮影]竣工式典の朝
 ・写真:竣工記念プレート[2004.11.6撮影]竣工式典の朝
 ・写真:ヒアシンスハウスの住所が印刷された名刺[1938年3月頃印刷と推定]
 ・建築スケッチ:「HAUS・HYAZINTH」2枚[1938年2月執筆]

   ※「ヒアシンスハウス」の実施設計図は「HAUS・HYAZINTH」を基本資料として作成しました。


「ヒアシンスハウス」の見学について

 場所:さいたま市別所沼公園内
 交通:JR埼京線 中浦和駅から徒歩5分
   :JR埼京線・武蔵野線 武蔵浦和駅から徒歩15分
 時間:外観は、何時でも見学可能
   :室内は、原則として、水・土・日曜日&祝日の10時から15時まで
    ※見学は、管理担当者(ボランティア等)の指示に従ってください。


「ヒアシンスハウスの会」発足のご案内

 「ヒアシンスハウスをつくる会」は、これまで、「詩人の夢の継承事業(さいたま市政令市
 記念市民事業)」として、立原道造が構想したヒアシンスハウスを、別所沼公園内に建設す
 るための活動を続けてきました。
 この事業には、記念館および立原道造の会も賛同し、種々の後援活動を行ってきました。
 おかげさまで、全国の多くの方々のご賛同を頂き、2004年11月6日、ヒアシンスハウスが
 竣工の運びとなり、会は、記念小冊子発行(2005年2月25日)を機に活動を終了しました。

 ヒアシンスハウスを維持・運営するために、この会の世話人や後援者、事務局などが中心と
 なり、「ヒアシンスハウスの会」を発足しましたので、引き続きご支援をください。
 なお、新たな会は、記念館および立原道造の会とは別組織ですが、運営委員(維持会員)と
 して協力しています。



竣工記念プレート」から抜粋

<建設趣意>

 詩人・立原道造は、1937(昭和12)年冬から翌年春にかけて、当時、葦がおい繁り静寂を
きわめた別所沼の畔に、自らのために小さな週末住宅を建てようとしていた。

 立原は、詩誌『四季』を主な舞台として、青春の憧れと悲哀を音楽性豊かな口語で謳いあげ、
わずか24歳8か月でその短い生涯を閉じたが、一方では、将来を嘱望された建築家でもあった。
東京大学建築学科の卒業設計「浅間山麓に位する芸術家コロニイの建築群」で構想した壮大な
都市計画や、小住宅設計などに示された現代にも通じる立原の設計思想は、今日もなお多くの
人々に語り継がれている。

 昭和初期、浦和市郊外の別所沼周辺には多くの画家が住み、「鎌倉文士に浦和画家」とも呼
ばれ、一種の芸術家村の様相をみせていたという。当時この地には、立原の年長の友人で詩人
の神保光太郎、画家の須田剋太、里見明正らが住んでいた。また、立原と親交の深かった東大
建築学科の同級生小場晴夫は旧制浦和高校の出身でもあった。これらのことから《芸術家コロ
ニイ》を構想した立原は、自ら住まう週末住宅の敷地として別所沼畔を選んだのであろう。

 立原は、この5坪ほどの住宅を《ヒアシンスハウス・風信子荘》と呼び、50通りもの試案を
重ね、庭に掲げる旗のデザインを深沢紅子画伯に依頼した。さらに住所を印刷した名刺を作り、
親しい友人に配っていた。しかし立原が夭折したため、別所沼畔に紡いだ夢は実現しなかった。

 立原が、「別所沼のほとりに建つ風信子ハウス」を構想してから66年の時が過ぎた 2003
(平成15)年、別所沼公園がさいたま市の政令指定都市移行に伴い、埼玉県からさいたま市
に移管された。これを機に、別所沼周辺の芸術家たちの交友の証として、立原がかつて夢みた
《ヒアシンスハウス》は、「詩人の夢の継承事業」として建設の機運が高まり、2004(平成
16)年11月、多くの市民たちや企業、行政の協調のもと、ここに実現することとなった。

<立原道造執筆の草稿と書簡[部分]>

★草稿「鉛筆・ネクタイ・窓」から[1938年秋頃執筆と推定]

 僕は、窓がひとつ欲しい。
 あまり大きくてはいけない。そして外に鎧戸、内にレースのカーテンを持つてゐなくては
いけない、ガラスは美しい磨きで外の景色がすこしでも歪んではいけない。窓台は大きい方
がいいだらう。窓台の上には花などを飾る、花は何でもいい、リンダウやナデシコやアザミ
など紫の花ならばなほいい。
 そしてその窓は大きな湖水に向いてひらいてゐる。湖水のほとりにはポプラがある。お腹
の赤い白いボオトには少年少女がのつてゐる。湖の水の色は、頭の上の空の色よりすこし青
の強い色だ、そして雲は白いやはらかな鞠のやうな雲がながれてゐる、その雲ははつきりし
た輪廓がいくらか空の青に溶けこんでゐる。
 僕は室内にゐて、栗の木でつくつた凭れの高い椅子に座つてうつらうつらと睡つてゐる。
タぐれが来るまで、夜が来るまで、一日、なにもしないで。
 僕は、窓が欲しい。たつたひとつ。……

★書簡 1937年12月17日 小場晴夫宛[東大建築学科同級生]
 ……僕は 疲れてゐる。何者にも。いつの間にか、僕は自分の晩年に就て 考へてゐる僕
を見出す、どんな陽気な問ひからはじまつても、僕は やがて 自分の晩年をロマンのなか
に悲しく描きはじめてしまふ。浦和に行つて沼のほとりに、ちひさい部屋をつくる夢、長崎
に行つて 古びて荒れた異人館にくらす夢、みんな二十五六歳を晩年に考へてゐる かなし
いかげりのなかで花ひらくのだ。

★書簡 1938年2月12日 神保光太郎宛[詩人・『四季』同人]
たうとう この手紙の最后で 僕の夢想をいちばんあとにまでかくしておかうとしたあなた
に お知らせいたしませう 同封しましたのが その計画の製図されたものです 旗は 深
沢紅子さんがデザインしてくれることになつてゐて それは僕にもどんなのが出来るのかわ
かりません ヒアシンス・ハウス・(風信子荘)といふ名前です(土地のことを具体的に早
く定めなくてはならないのですがいつお会ひ出来るでせう)
  [中略]
 2. 同封の図面は二つありますが 地主さんにお会ひになりましたら ちよつとお伝へお
きねがひたく どちらでもいいから見せておいて下さい僕も行つて 早く土地を正式に借り
受けたいと存じます 百坪などいらないのですが あまりすくなくては貸してもらへないと
おもひますので 百坪と申します 出来たら 五十坪ぐらゐでいいとおもふのですが 五十
坪のなかへ 四坪半の小家―を建ててもまだ広すぎる位です
 3. 里見さん[註・里見明正]にも はなしておいて下さい 僕は 近いうち 日曜日に
 もつと正確な 設計図を持つて 浦和に行きます そのときに 僕がはなすことがありす
ぎると混乱してしまうだらうとおもひますゆゑ 予備知識を画家[註・須田剋太]たちに注
ぎこんでおいていただければ幸せです(実行家のエスプリでせう!)

★書簡 1938年2月中旬頃 深沢紅子宛[画家]
浦和に建てるヒアシンス・ハウスの図面を同封しました。/旗のデザインをして下さいまし
たら、たいへんにうれしく存じます。

★書簡 1938年3月下旬頃 高尾亮一宛[一高の先輩]
……それから、「ヒアシンス・ハウス」といふ週末住宅をかんがへてゐます。これは、浦和
の市外に建てるつもりで土地などもう交渉してゐて、これはきつとこの秋あたりには出来て
ゐるでせう。五坪ばかりの独身者の住居です。これも冬のあひだしよつちゆうかんがへ、お
そらく五十通りぐらゐの案をつくつてはすててしまひました。今やうやくひとつの案におち
ついてゐます。

★書簡 1938年4月上旬頃 深沢紅子宛[画家]
ヒアシンス・ハウスのこと、その家のとなりに住んでゐる絵描きさん[註・里見明正]が六
日から写生旅行に行くので、そのアトリエを借りて家の出来上らない先に浦和に移らうとお
もひます。


 ※立原は、書簡や設計図等の中で、「ヒアシンスハウス」の呼称を様々に書いていますが、
  建物の呼称については、立原自身が作った「名刺」から採りました。



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Copyright(C) Tachihara Michizo Kinenkai 2005